国画会鹿児島支部

 

  桜島(城山から?)

 

 西郷隆盛銅像?

 

→鹿児島国展会場風景    →支部会員作品紹介   →支部展覧会等情報    →支部のあゆみ    →連絡先    

日本最大級の公募団体「国画会」の「鹿児島支部」の活動を紹介しています。 

国画会とは・国展とは 

国画創作協会の創設

1918年(大正7年)に日本画家の小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰の5名の京都の新進気鋭の画家達により、「創作の自由を尊重するヲ持って第一義となす」の理念のもとに「国画創作協会」が創設された。

明治末期から大正初期にかけては、文化は西欧の影響が大きくなったが、京都では日本画と洋画の垣根なく、学者・画家がともに絵画を論じ研究するグループがあった。それは西欧の画風を取り入れようとする日本画の確立と日本の風土に根差した洋画の確立を目指すという共通の課題を持ち、渡欧し西欧の芸術について研鑽し、かつ共同の展覧会を開くという清新な風潮であった。

その中にあって国画創作協会の土田麦僊は1925年(大正14年)、共に研究会に参加していた梅原龍三郎、川島理一郎を同協会に迎え入れ、第2部として「洋画部」を新設した。

これを機にそれまで展覧会は秋期であったのが春に変更され、以降春期に定着するに至った。「国展」はこの定期展の呼称とした。この洋画部新設にあたって会運営の円滑化を図るため、評議員として川路柳虹、田中喜作、福原信三、野島康三を加えここに清新なる芸術の創造を目指すことになった。翌年1926年(大正15年)洋画部の公募をはじめ、記念すべき国画創作協会第一回展を開催した。

1927年に金子九平次を迎えて「彫刻部」を、富本憲吉を迎えて「工芸部」を新設した。1928年には椿貞雄、河野通勢、高村光太郎を加えた。ここに文展後の帝国美術院と在野の二科会、春陽会に国画創作協会が並ぶ形になり日本の美術界を担った。しかしながら1928年に国画創作協会第一部(日本画)はわずか10年の活動で解散に至る。 

国画創作協会から国画会に

国画創作協会第一部の解散後は名称を「国画会」と改め、展覧会名も通称としての「国展」を継承し、洋画部初公募をした1926年を第一回として、1929年を第4回として上野東京府美術館で開催し、国画創作協会の洋画部から国画会として梅原龍三郎の主宰の下に成長を続けることになる。

5回展(1930年)に、絵画の中に含まれていた版画も平塚運一の会員推薦により版画部を新設し、翌年から独立した。そして第14回展(1939年)において福原信三、野島康三の下に写真部を新設しここに5部からなる総合美術団体となり現在の礎となった。

草創期の国画会の果たした在野団体としての役割は、福島繁太郎の影響もあり、毎年のように諸外国の優れた作家たち(マチス、ボナール、ロダン、ブールデル、バーナード・リーチ、ルオー、モネ、ルノワール、シャガール、ピカソ、セザンヌ等々)を特別陳列して世に広く紹介したことが特筆される。この事は内部的に研鑽の資となったのは勿論、対外的にも海外作品に触れることの少なかった当時の美術界には非常に有益な企画でもあった。 

戦後から現代の国画会として

戦後、芸術の分野は個性的にして様々な発想、技法、様式が拡散普遍化したのに伴い、国画会も創作の自由を尊重するのを第一義とした創立精神に基づき、世界的視野に立った創造的にして個性的な作品発表の場として、実に多様にして広角的な作品を抱合する内容となっている。それは絵画・版画・彫刻・工芸・写真の5部それぞれに日本を代表する作家を多数輩出し続けていることでもうなずけるのではなかろうか。

また近年、作家がいかに自然と社会とのかかわりを持ち得るのか等々、美術団体としてのあるべき姿を模索し具体化しつつある。また会の運営は全て合議制になっていることを付記しておきたい。

   (国展HPより http://kokuten.com/  

<国画会鹿児島支部のあゆみ> 

  国画会の絵画部を主な出品の場とする7人が、横のつながりを作り、お互いに高め合うことを目的に、2002年に「第1回鹿児島国展」が開催されたのが始まりです。 

このページ上部の検索項目にある「鹿児島国展会場風景で、毎年の展覧会の概要をご覧になれます

(注)2018年12月「国画会鹿児島支部」役員改選により新役員が新たなHPを作成予定です。


*2012年9月ホームページ開設 鈴山市郎

inserted by FC2 system